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実践・専門職倫理学会(APPE) 2004年度年次大会報告

伊勢田哲治

 実践・専門職倫理学会(Association for Practical and Professional Ethics)の2004年度の年次大会は2月の27日から28日にかけてアメリカオハイオ州のシンシナティで開催された。以下、報告者の出席したセッションについて簡単にまとめを行う。ただし、報告者が出席したセッションのみの報告なので大会全体のバランスのとれたまとめとはなっていないので注意されたい。

よい仕事

 Howard Gardnerによるキーノートアドレス「さまざまなプロフェッションにおけるよい仕事」は、ガードナーらの近著Good Work (Basic Books)に基づく発表であった。まず、「よい仕事」(good work)の三つの条件が提示された。まず、よい仕事には高いクオリティが必要である。つぎに、ある仕事がよいとされるには責任ある仕事であることも必要である。もうひとつ、「内的に動機付けられた」仕事であることも「よい仕事」の条件である。かれらの研究の目的は「よい」という概念の分析ではなく、「よい仕事」をしようとしてうまく行く/失敗するのはどういうときか、という経験的な研究である。これにはそのプロフェッショナル個人、規範や価値、制度や役割などが影響する。また、アラインメント、すなわちいろいろな利害関係者が同じことを望むのはよい仕事がうまくいく条件である。コンフリクトがあるとよい仕事はうまくいかない。しかしコンフリクトがあるためにエネルギーを得る人もいる。
ガードナーらはさまざまなプロフェッションがどういう状況にあるかについて、インタビューの量的分析にもとづく研究を行っている。特に対照的だったのはジャーナリズムと遺伝子工学で、ジャーナリストはアラインメントが欠けていると感じていて動機付けが欠けているのに対し、遺伝子工学者たちはアラインメントがあるという意識も仕事への動機付けも強い。そのほか、師弟関係においてどの程度価値観が継承されるかを何世代かにわたって比較する研究や「妥協的」仕事についての研究なども進めている。

環境倫理と人間中心主義

 Thomas I. White は「人間、イルカ、ビジネス」と題する発表をおこなった。Whiteはもともとルネサンス期を専門領域とする哲学者だが80年代以降イルカの知的能力の研究にかかわり、フィールドワークにも参加してきている。人間以外の動物を扱う際に大事なのは、人間中心主義をとっていないつもりで本当は人間中心主義的な考え方をしてしまう危険性である。イルカの言語能力についてのハーマンの研究は有名だが、多くの批判をうけている。たとえばスティーブン・ワイスは動物権について著作の多い法律家だが、イルカは言語能力を持っていないので人間と同列には扱えないと論じている。また、アラスディア・マッキンタイアはイルカが言語を持つことは認めるが、イルカには将来について考える能力や行為の理由を評価する能力が欠けているのでindependent practical reasoner であることは否定している。Thomas White は彼らの議論は意図せざる人間中心主義で、しかもデータによって否定されている、として反批判を行っている。Whiteは、人間とまったく同じことができなければ言語能力があると認めない、というのはイルカと同じように泳げなければ水泳能力がないと言うのと同じでばかばかしい、と批判する。環境倫理や動物倫理について発言する者は関連する科学の文献をきちんと読む覚悟をすること、との結論であった。
 聴衆からの質問として、人間中心主義の否定を押し進めすぎると、快苦の能力を重視することも人間中心主義として否定されるので倫理そのものの基礎を覆すことになるのではないか、という質問があった(報告者がその質問を行った)が、発表者からの答えは既存の倫理をゆるがすことが目的だ、というもので、若干かみあわなかった。

Ethics across Curriculum

 Ethics across Curriculum についてのパネルディスカッションではMichael Davisを司会として四人の発表者が発表した。発表者は四人ともイリノイ工科大学で行われているEthics across Curriculum ワークショップの卒業生だとのことである。
 Michael D. Mosherはネブラスカ大学カーニー校の化学科での取り組みについて報告した。ここで論じるのは、他学科の学生もとる初年次むけのGeneral Chemistryの授業での実践である。ここでは学生の動機付けに「化学会社」(chemical company)を作らせる。3人程度の学生にグループをくませ、「社長」をえらび、社名やロゴも作ってウェブサイトを作らせる。二週間に一回、学生の会社に対してケーススタディ形式の宿題が出される。ケーススタディはアメリカ化学会の倫理綱領にもとづいて作られており、回答には化学物質の構造や毒性についての化学的知識を示すことも求められる。
 Gayles Ermerはカルヴィンカレッジの工学部での取り組みについて報告した。この大学のENGR101のクラスではCatalyst Bの事例や"Testing Water"というタイトルのビデオを使い、デイビスの7段階法や倫理綱領にもとづいて回答させる、という形で倫理教育を授業に取り込んでいる。学生の反応は非常によい。
 Jose A. Cruzは UPRM(プエルトリコ)の工学部での取り組みについて報告した。ここでは、3、四年次の授業の中に倫理競技会(Ethics Bowl)を取り入れている。最初は50分授業のなかに取り込んだが、フォーマット通りの倫理競技会をするには50分は短すぎることが判明したため、75分授業に移した。競技会そのものには6回分の授業が費やされるが、倫理理論などについての授業がその前に行われる。ジャッジは工学部および他学部の教員が担当しているが、教員も自分の経験を事例に生かすことができ、教員と学生の両方にとって有益な経験となっている。 (倫理競技会については
http://www.iit.edu/departments/csep/EB/bob.htmlを参照。報告者は出席しなかったが、本年もAPPE 大会にあわせて大学対抗倫理競技会が行われている。)
 Randall R. Curren はロチェスター大学の教育学部での取り組みについて報告した。かれが授業の中で使う事例は、学校が清涼飲料企業と提携することの倫理性や、高校で社会奉仕を義務化することでボランティア精神をかえって損なうのではないかという事例、全体として優秀な学生が期末試験であまりいい点をとらなかったときに成績に手心を加えることの倫理性などである。問題解決の手法としては彼はフットやレイチェルズを基礎に、倫理学の思考法を学生に教えている。教育学部の学生にとっては、倫理的思考が理性にもとづいて行為を導くことだ、という哲学者にとっては当然のことが非常に新鮮に感じられる。また、慣れるまでは、教育学部の学生たちは規範的主張を明示的に行うのを非常にためらう。
 会場からの意見として、事例について考えさせる前にもっと基本的な論理的思考法を教えるべきではないのかという批判があった。これについては、倫理綱領を現実問題にあてはめるのは三段論法の実践になっている、という回答があった。また、ビジネスエシックスの観点からは、企業の倫理綱領が何の役にも立たないことはエンロンの事例で明らかになっているので、倫理綱領を出発点とする考え方は止めて、むしろ倫理綱領にたどりつくための思考法を教えた方がよいのではないか、という批判もあった。発表者からの回答は、倫理綱領は経験にもとづいて作られており、学生が倫理綱領を学ぶことには、どういうことが問題になるかについて目を開かせる効果がある、とのことであった。

性的関係への同意

 Alan Wertheimer のConsent to Sexual Relations (Cambridge University Press)という著書の合評会においては、Nancy HancockとJoan McGregorが批判的検討を行った。この本は性的関係への同意についての一般的説明を与えることをめざし、具体的には、同意の道徳的重要性や、同意無しの性的関係は危害ないし虐待(wrong)とみなされるべきかといった問題に答えることを目的としている。
 Nancy Hancockは本書が進化心理学を説明の基礎としていることを批判する。Wertheimerは男女の生殖戦略の差が男性と女性の性格的特性に影響をあたえると考え、男性がなぜレイプをするのか、レイプされた女性がなぜ深刻な精神的ダメージをうけるのかを説明する。しかし、Hancock はこの説明図式の欠点を指摘する。まず、進化心理学はホモサピエンスという種が形成された時期の状況をもとに適応戦略について考えるが、その前やその後の状況も考えないといけないはずである。とくに、近年の人間社会においてはレイプが適応的とされる状況はすでに消失している。また、レイプが妊娠に繋がる確率は低く、生殖戦略としてあまり意味がない。(もう一点、Hancockは、男性と女性で別の生殖戦略が選ばれるという考え方自体がおかしく、種の保存にとって有用な戦略が選ばれるはずだと言うが、このコメントは現在の進化生物学の知見からいって問題がある。)レイプが深刻な精神的ダメージになる理由としては、それが実際に身体的危害だから、という方がよほど納得が行く、とHancockは言う。
 Joan McGregor は、同意が存在すると認められる条件の問題についてコメントする。Wertheimerの基本的テーゼは同意は外面的行動によって定義される「遂行的」行為であって主観的状態ではない、という点である(この点にはMcGregorも同意する)。ただし同じ外面的行動でも常に同意になるわけではなく、状況によって強制されている場合には同意を与えたことにはならない、ということはWertheimerもみとめている。しかし、たとえば困っているAに対して通りがかりのBが助ける代償に性的関係を求めたような場合には、Wertheimerは強制とは認めず、Bに対してAが助けを要求するなんらかの権利を持っている場合にのみ強制をみとめる。McGregorはこの立場に対し、セクシシュアル・ハラスメントに繋がる事例がありうるのではないか、という憂慮を表明している(たとえば教員Bが学生Aに実際よりもいい成績をつけることを対価に性的関係をもちかけた場合、上記の条件は満たされているが、Aが自由な同意を与えたとみなされるかどうかは問題があり、これはむしろセクシュアル・ハラスメントとみなされるべきである)。他方ではたとえば酩酊状態での行動は同意とよべない、という判断に対し、これは女性の肯定的自律性(「イエス」と言う能力)を切り縮めすぎているのではないか、と言う。肯定的評価として、McGregorは、本書が「正義と性」という章を設け、性的関係の回数について分配的正義が適用されるべきかどうか、という問題を扱っていることにふれ、この問題についてのまとまった議論はおそらくこれが初めてであろう、という。
 次に著者であるWertheimerからの反応であるが、彼はまず、「レイプは性の問題ではなく単に暴力の問題だ」というフェミニストの主張に対し、レイプに身体的危害の面があることを否定しているのではなく、問題設定として心理的影響の面に興味があるだけだ、と答える。そこではやはり、被害者のダメージの受け方の中に、レイプが性的な危害であるという要素があるように思われる。また、進化心理学については、この考え方は特定の行動が進化論的に決まっているということを主張するのではなく、全般的な性格的傾向だけが対象になっているということを注意する。また、酩酊状態については、酩酊状態にある場合には決して同意と認められないと主張しているわけではない、として、もとの本での主張をより詳しく説明する。それによると、Wertheimerは本書で「酩酊状態にあるから同意能力はない」という単純化も「酩酊状態に自発的に入ったから有効な同意と認められる」という単純化も危険である、と主張しているのである。強制の問題については、Wertheimerは批判者と基本的には同じ立場だとのことであった。
 会場からの質疑としては、「1000ドル出さなければ旦那さんに昨晩の行動をばらしますよ」というのは法律上脅迫にあたるが、1000ドルのかわりに性的関係を求めた場合には脅迫にならないとされている、という法的な事実にふれ、それについてどう思うかという質問があった。Wertheimerの回答は、場合によってそれが十分な情報に基づく正当な取り引きとなりうる可能性をのこしておくべきだ、というものであった。また、同意を外面的行動によって定義することについて、事後の行動は関係してくるか、という質問があったが、これについては著者は明確に否定した。

アファーマティブアクション

 Judith Lichtenberg は大学の使命とアファーマティブアクションの関係について発表した。南北戦争以降のアメリカの大学はさまざまな目的を使命としてかかげてきている。「優秀な学生を育てる」ことはその一つにすぎず、「社会へ出るための準備をさせる」こと、あるいは「多様な人々が統合された社会を作る」ことも大学の使命とされる。この観点からはアファーマティブアクションは自然に理解できる。
 Michael B. Williams はどの程度の多様性が分配的正義のためにのぞましいのかについて考察した。バッキ訴訟ではアファーマティブアクションのためであっても入学定員に厳密な人種割り当てをすることは違憲だとされた。その判決理由の中でパウエル判事は「多様性」をひとつの判断基準として導入した。ミシガン大学を巡る訴訟では、入試において"underrepresented" minorityの成績を割り増しに評価するシステムが問題となった。いずれにせよ、憲法修正第14条には実質的な解釈の余地が残っていることには間違いがない。
 Albert Mosley は他の発表者への返答として、アフリカンアメリカンに対する差別の問題を多様性一般の問題に解消しようとするのは間違いだ、と主張する。アフリカンアメリカンは奴隷制と分離政策という非常に特殊な歴史をせおっており、だからこそその歴史を矯正するには「クリティカルマス」が必要なのである。
 出席者からの(かなり長い)発言として、民間と軍でのアファーマティブアクションについての考え方の差が指摘された。軍においては非常に黒人・女性に対する偏見が強かったが、1960年代を境に大きく状況が変わった。これには軍の上意下達文化が大きな影響を与えている。軍人はどんな「不合理」な命令にも従うことになっているので、一定の比率を達成目標として与えられればそれを実現することに全力をつくす。その結果軍における女性や黒人の比率は改善され、女性差別や人種差別に対する教育もかなり徹底している。これに対し、民間では、個別の事例では人種差別ではないようにみえても統計的には明らかに差別が存続する、といった現象が生じている。もちろん軍から差別がなくなったわけではないが、民間企業も軍から学ぶべきところがあるはずである、というのがこの出席者の発言の主旨であった。
 そのほか、聴衆からのLichitenbergへの質問として、そもそも入試の成績で学生を選別することを正当化できるような使命をかかげている大学は存在するのか、という質問があった。Lichtenbergは「リーダーシップ」がおそらくその正当化のために使われているということと、2000近くあるアメリカの大学のうち、本当に競争的入試をやっているのは50校程度だろう、ということを指摘した。

工学倫理教育

 Michael Louiはイリノイ大学アーバナシャンペンにおける調査について発表した。彼のたてる問題は、工学倫理教育が学生の中にプロフェッショナルとしてのアイデンティティを確立する上でどう役に立っているか、ということである。彼は工学倫理の授業の受講生に対してコースの最初と最後に50?60分のアンケートをとる。アンケートから分かるのは、学生は工学倫理の授業を受ける前でも、技術者が自分の仕事の対象がきちんと機能するようにする責任を持つことを理解している。プロフェッショナルであることの定義としては、授業をうける前は職名やサラリーなど外的な基準を多くあげるが、コースの最後にはより内的な基準をあげるようになる。一つ興味深い傾向として、イスラム教徒の学生は専門職倫理と個人倫理を区別しない傾向がある。
 William J. Frey はUPRM(プエルトリコ)での試みについて発表した。この大学では倫理理論の授業と実践倫理の授業を区別している。発表者は倫理理論と実践倫理は「黒帯」のための武道のコースと「自衛」のためのコースの差と比較する。また、かれらはhands-onの授業をすることも目標としている。そこで導入されたのが、「Ethics across Curriculum」のセッションでも紹介したように倫理競技会という手法である。ここでは学生も競技会用の事例を準備する作業に参加する。目標としては六つのスキルを育てることにある。倫理的な意識や評価能力を高めるだけではなく、具体的な事例から理論へと抽象化する能力などもこのやり方で育てられる。倫理綱領も頭ごなしに与えるのではなく、その倫理的根拠まで遡って考えることを学生に要求し、自分達のバージョンの倫理綱領も作らせる。ただし、倫理競技会はフィードバックを与える手段としては優れているが成績をつけるためにはあまり役に立たない。そこで、この授業では、倫理競技会のあとに数週間のdebriefingの時間をとって学生たちに自己評価をさせ、それを成績評価の基礎としている。
 Goran CollsteはLinkoping University (スウェーデン)での取り組みについて発表した。スウェーデンではCDIO initiativeと呼ばれる事例ベースの教育メソッドが工学教育に導入されつつあり、その一部として工学倫理教育も含められている。事例としては普通の工学倫理の事例のほか、キシェロフスキーの「十戒」という映画なども利用している。また、推薦図書の一つとして、発表者自身も執筆者として参加しているPhilippe Goujon (ed.)Technology and Ethics: A European Quest for Responsible Engineeringという本を使っている。このテキストは技術者個人に関わる倫理問題だけでなく社会における技術の位置も取り上げている(ただし後で発表者に確認したところ、この本は教師へのリソースとして挙げられているだけで、授業の中で社会の中の技術の問題を扱うわけではない、とのことであった)。
 会場からの質問として、プエルトリコの事例で学生が倫理綱領を作る上で何か特徴はあるか、というものがあった。回答としては学生の作る綱領には技術者の義務だけでなく技術者の権利も含まれる、それから環境保護について現存の綱領より情報量が多くなる傾向がある、とのことであった。

研究倫理

 John Gardenier は統計倫理について発表した。統計の倫理において問題となりうる誤りや過失にはさまざまなレベルがあり、過ったアルゴリズムや解釈にもとづいて分析が行われた場合、ボランティアを使ってサンプルを集めた場合、研究のデザインの前にデータが集められた場合などについて同列にはあつかえない。また、場合によっては統計的手法を使った研究をすべきなのにそうしないことも研究倫理の問題となりうる。結論としては統計を利用するために統計学者である必要はないが、統計的手法に明るい人に助けを求めることを恐れてはならない。彼は授業において以上のようなレクチャーをしたあと、以上のような統計倫理は研究を難しくするか容易にするか、という問題についてディスカッションをさせるとのことである。
 会場からの反応として、ベイズ統計では事前にサンプルサイズを特定することが要求されるが、これは統計倫理として厳しすぎると思うかどうか、という質問が出された。発表者からの回答として、サンプルサイズについての要求は治験についてはすでに以前から存在している点が指摘された。また、ベイズ統計があまり使われなかった理由として計算可能性の問題があったが、ここ10年ほどで高性能のコンピュータが使えるようになったため状況はかわってきており、ベイズ統計的分析が要求されるようになってきている、という点も発表者から補足があった。

プライバシー保護

 Daniel Skubik はEUの1995年の個人情報保護の指令(Data Protection Directive)について発表を行った。この指令は世界各国に影響を与えているが、そこにはいくつかの問題がある。まず、この指令は明示的に自然人の情報のみを保護するとしている。これは北米やアジアにおいて問題になりうる。北米では法人は自然人と同列の存在と扱われるので、法人の情報も保護されるがそうした発想はEUにはない(そのため、ある個人が企業の公用でEUを旅行するような場合には個人の情報は保護されないことになってしまう)。また、自然人を重視することの背景にある形而上学はアジア的な価値観とは矛盾する。もう一点、EU指令はある種の個人情報を非常に厳格に保護するので、たとえばある種の企業で行われている社員の個人情報の公開は本人の同意があっても不可能になってしまう。こうした特徴が問題となるのは、EU指令が第三国への情報移転について、その国でEUと同列の個人情報保護を行っていることを要求するからである。この条項のために、各企業は情報管理の方法を根本的に変えざるをえなくなり、場合によっては国際的な情報の統合管理が不可能になってしまう。また、各国政府は、EUと自国にまたがる多国籍企業の便宜をはかるためにEU型の情報保護をせざるをえなくなり、EUの特定の考え方が国際的に強制されることになる。
 コメンテーターのTetsuji Iseda (報告者)はこの発表に対して以下のようなコメントを行った。まず、企業にとってこの指令を遵守するのが難しいというのはそれ自体では指令を批判する根拠にはならない(環境規制などと比較してみればわかる)。また、アジアとの関わりでいうと、この指令がアジア的価値観と矛盾するというのは事実問題としても規範問題としても疑わしい。日本で個人情報保護法が問題になったとき、この法律の保護の対象が「生きた個人」だけだということはまったく問題とならなかった。ほかのアジア諸国でも情報保護法制を導入しない主な理由は経済的な理由や国家統制上の理由である。また、プライバシーは全体主義的な社会で抑圧されていた人々を解放する手段となりうるので、外部の人間がアジア的価値観を守ってあげようとするのも不適切である。ヨーロッパ中心的決定プロセスが問題だというのであれば、北米なりアジアなりで、対抗する個人情報保護の考え方を具現化した法制を導入し、競わせればよい。
 会場からの議論はもっぱら法人の情報が本当にプライバシー保護に値するかどうか、という点に集中した。もしある個人が法人の一員として行動しているなら、その行動について一定の透明性が要求されるのは当然である、という意見が複数の参加者から出された。また、Skubikは情報移転についての条項を領域外適用の一種だと説明したが、むしろこれは領域内での輸出行動についての条項とみなすべきだ、という意見が出された。

 報告者の参加したセッションは以上である。全体として、今回の年次大会は発表のクオリティがかなり高かった印象がある。ただ、平行セッションの数が多いために各セッションの参加者数が少ないのが気になった。