技術と社会:工学倫理の観点から

伊勢田哲治

1工学倫理が問題となる背景

科学技術の安全性を巡る問題は、大きな事故や不良品による被害が出るたびに話題となってきた(最近では東海村の事故や雪印の食中毒事件などが記憶に新しいところである)。しかし、こうした場合に問題視されるのは、たいていは管理運営責任であって、技術者個々人の倫理を問うという形にはなってこなかった。しかし、そうした状況は今後変わっていくかも知れない。技術者個々の社会的責任についての認識は、日本よりも英語圏の諸国、とりわけアメリカにおいて高い。アメリカにおいては工学技術教育認定委員会 (Accredition Board for Engineering and Technology, ABET)という組織が存在しているが、これは大学の工学部・工学研究科などが適切な技術者教育を行っていることを認定する機関である(28の専門技術者の協会の連合体)。この ABETがカリキュラムを評価する基準として強調するのが、技術者の社会的な責任に対する意識と理解である。この技術者教育認定制度は最近では国際的広がりを持ちはじめており、認定を受けていない機関の学位をもつ技術者が採用などの点で不利になる場面が生じている。そうした実際的な問題に後押しされる形で、日本でも日本技術者教育認定機構(Japan Accrediation Board for Engineering Education, JABEE)が設立され、ここでも技術者の倫理的責任についての教育が強調されることになりそうである。(注1)

こうした動きをうけて、現在日本でも工学倫理(engineering ethics)に対する関心が高まりつつある。こうなった経緯や現在の方向性の望ましさはともかく、技術者を巡る倫理問題が正面から取り上げられ、論じられるようになってきたのは喜ばしいことである。以下、本稿では、まず、工学倫理とはどういう領域なのか、アメリカの教科書などを参考にしながら簡単にまとめていきたい。(注2)次に、そのような工学倫理教育と同等なものを日本において実施することがはたして望ましいかどうかということを考えてみたい。工学倫理が問題となるようになった動機からして、アメリカと同様なカリキュラムを組むことが既定の方針となっているように見受けられるところがあるが、本当に技術者の社会責任について真剣に考えるならば、この大前提から検討する必要があるだろう。なお、本稿ではengineering の訳語として「工学」、engineer の訳語として「技術者」、 technologyの訳語として「技術」という、若干語根の関係のわかりにくい訳語を採用していることを断っておく。

2工学倫理の諸問題

工学倫理の教科書をひもといてみると、「賄賂をうけとらない」「データの盗用・捏造をしない」「守秘義務をまもる」といった、いわば当然の、また技術者に限らない項目が目に付くが、本稿ではこれらは取り上げない。本稿で扱うのは、事故や製造物責任などと関連した、技術者の社会的責任をめぐる事項である。

2-1事例

工学倫理の大きな関心となるのは技術的な問題のからむ大事故をめぐった責任問題である。これについて、おそらくもっともよく取り上げられるのが次の事例である。

<事例1>チャレンジャー号爆発1986年の1月28日にスペースシャトルのチャレンジャー号が打ち上げ直後に爆発した。これは、ブースターの内部で使用されるOリングと呼ばれる部品の不良によるものだったとされている。この打ち上げは厳寒期に行われたが、Oリングは非常な低温下ではテストされていなかった。実はOリングに問題が起きるかもしれないということはすでに打ち上げ前に指摘されおり、現にブースターの製作を請け負ったシオコール社の技術者ロジャー・ボワジョリーらは打ち上げの延期を主張していた。しかし積極的に危険があると示唆するデータもなく、またスペースシャトル計画が遅延をかさね予算を浪費していることへの政治的配慮も働き、シオコール社の経営陣は延期の必要はないという判断を下した。(注3)

次に、製造物責任の問題も工学倫理の問題としてよくとりあげられる。古典的なのが以下の事例である。

<事例2>フォードのピント訴訟フォード社が1971年に導入したピント(Pinto)という車をめぐって生じたトラブル。この車はガソリンタンクを車の一番後ろへ持っていくというデザインのため、後ろから追突された場合にガソリンタンクが炎上ないし爆発する危険があった。実際にもそうした事故はいくつか起こり、フォード社は訴えられることとなった。フォード社は有罪にはならなかったが、結果としてピントをリコールして安全確保のための部品をとりつけることになり、裁判費用と共に膨大な出費を強いられた。この例において、関与した技術者の一人は、一台につきあと11ドルのコストでタンクをより安全にすることができるという覚え書きを安全試験のあと経営陣に提出したが、受け入れられなかったという。(注4)

もちろん工学倫理で扱う事例はこれに限らない。上の二つの事例はどちらも具体的な製品にかかわる問題だが、コンピュータ管理システムに関しても同じようなことは問題となる(サンフランシスコのBARTの管理システムをめぐる内部告発などが有名)。あるいは最近では安全性ではなく環境への影響などもまた技術者が考慮すべき問題として取り上げられるようになってきている(この例としてはアメリカ陸軍のアバディーン実験場からの化学物質の漏洩を巡って化学技術者3人が有罪の判決を受けた例などが用いられる)。

2−2 判断の視点

(a) リスク評価

以上のような事例において技術者が何をすべきかを考える上で、リスクの見積もりの問題は避けては通れない。一般に、公共の福利に関わる技術は100パーセント安全なのが当然であり、事故は必ず何らかの不手際によって起きる、という考え方が流布しているようである。しかし、技術というものは、複雑になればなるほど、そうした確実性は事実上ありえなくなる。したがって、どの程度のどういうリスクなら受容可能かという判断が要求されるのである。チャレンジャー号の爆発の事例ではOリングが低温下でどの程度危ないかというリスクの評価が問題だったのであり、ピントの例では後ろからの追突の危険がデザイン上の変更を必要とするほど重大なものかどうかというリスクの判断が問題となっていた。もちろん実際にリスクの評価をするにはそれぞれの事例に特有の技術的細部の情報が必要であるが、それと同時に、どのようなリスクが考慮に入れられるべきか、リスクの重みづけをどう考えるべきかというようなことに関しては一般的な議論もある程度は可能であり、工学倫理教育ではそうした一般原則を教えることになろう(たとえば、異なる時代や異なるグループへのリスクをどう比較するかについての原則など)。(注5)

(b) 意図せざる帰結への配慮

もう一つ工学倫理で強調されているのが意図せざる帰結(unintended consequences)への配慮の問題である。設計の段階では想定されていなかったような環境や用法での使用や技術者の注意を引きにくい副次効果などがこれにあたる。上の事例でいえば、チャレンジャー号の設計が極端な低温での離陸を想定していなかったことなどが挙げられる。

意図せざる帰結の例として、自動車にまつわるものを二つあげる。自動車が導入され馬にとってかわって行ったとき、自動車は、馬糞の害もなく突然暴れたりもしないクリーンで安全な乗り物として歓迎された。すべての人が車を持つようになったときに、排気ガスや交通事故が深刻な問題になるということはその時点では予期できなかったわけである。また、渋滞の解消のためによくとられる手段として、新しい道路の建設があるが、実際にはその新しい道路そのものが渋滞するだけだという観察がある。その道路の存在自体が、それまでは車を使わなかった人や他のルートをとっていた人を引き寄せてしまうからである。(注6)こうした意図せざる帰結の多くは不可抗力ではあるが、どこまでが不可抗力で、どこまでが当然働かせるべき想像力の欠如とみなされるかは微妙なところである。

2−3行動上のオプション

(a) 安全性のための設計

ある製品やシステムに関して受け入れがたいリスクがあると認められた場合には、安全上の措置をとるのが当然である。また、意図せざる帰結が重大な被害を生まないような工夫も要求される。しかしここでも、100パーセント安全にすることはできないし、過度の安全措置がむしろ製品の価値を損なうような場合もありうる。

安全措置にもさまざまな類型がある。部品の安全係数を高くとるセーフ・ライフ設計や、失敗した時の被害を最小限にするフェイル・セーフ設計、同じ機能を何通りものやり方で果たせるようにする冗長な設計、誤操作の要因を取り除くフール・プルーフ設計などがあり、技術者は自分が直面するリスクの性質に応じて必要かつ十分な安全対策をすることが求められる。(注7)

(b) 内部告発

場合によっては、経営上の判断によって、技術者が納得のいく安全対策をさせてもらえないかもしれない。そのような場合に技術者が社会的責任をはたす上で一つの選択肢となりうるのが内部告発(whistleblowing)である。例えば、チャレンジャー号の事故において、ボワジョリーがどうしても打ち上げを延期させたいと思えば、Oリングの問題を公にして、外部からシオコール社に圧力をかけるとい、手段もあったであろう。彼にはそこまでする義務があっただろうか。

内部告発をした者は企業の内部で不利な立場に立たされることが多いため、内部告発を技p者の義務とするのは技術者にとって酷である。また、工学倫理にかかわる倫理規定の多くは、公共の福祉への義務だけでなく雇用者に対する義務も存在することを認めており、そうした観点からすれば、本当に告発の必要な条件が存在するかどうかの判断は雇用者に危害を加えないよう慎重に行われる必要がある。このような事情にもかかわらず工学倫理の教科書が内部告発の重要性を強調するのは、大事故を未然にふせぐ告発を行いうる立場にいるのは関与した技術者だけだという状況がしばしば起こるからである。

(c) 社会制度の整備

以上のような、技術者個人の問題とは別に、内部告発にたよらなくてもよい機構や、告発者の負担が軽くなるような機構の整備も工学倫理の問題として論じられる。(注8) まず、内部告発が必要な状況を作らないことは、ピントの事例をみるまでもなく、企業そのものにとっても長い目で見て利益になることが多いので、企業そのものをもっと風通しよくするという対策が考えられる。あるいは技術者の団体が外部からの圧力団体として個々の技術者の倫理的な行動をサポートする仕組みも考えられる。告発者を保護するような法律の整備もひとつのオプションではあろう。

3 技術と社会の相互作用

以上、工学倫理の主な話題を見てきたわけだが、非常に顕著な特徴として、工学倫理がもっぱら技術者の個人的な道徳の問題として扱われているということが言えるだろう。これは技術者教育の一環として工学倫理をとらえる限り当然の結果である。しかし、技術と社会の密接な関係を考えるなら、技術がいかにあるべきか、というのはもっと広い見地からとらえ直されるべき問題だろう。工学倫理教育が如何にあるべきか、アメリカ式の工学倫理教育を日本にも導入してよいのかどうか、といった問題も、そうした大局的な判断とのかかわりで考えられるべきである。以下、簡単に、技術と社会の関わりについての全般的な見解をまとめ、それと工学倫理との関わりを考えていきたい。

技術と社会の関わりについては、二つの極端なモデルがある。一方では技術決定論(technological determinism)的な考え方、つまり技術の発展は自律的に進み、それが社会の発展の道筋も決定する(少なくとも影響をあたえる)という見方がある。(注9) たとえば、ラングドン・ウィナーの使用する例でいうと、ラップ人がスノーモービルを導入した際、それまで緊密だったトナカイの群との関わりが疎遠になり、トナカイの面倒を見るために組織されていた社会的なグループが崩壊することになった。(注10)

技術決定論と対極に位置するのが技術に関する社会構成主義(social constructivism)の考え方である。この考え方によれば、技術をめぐる問題の設定や問題解決の方向の提示、問題が解決されたといえる時の基準などはすべて非工学的要因も含めた社会的プロセスによって与えられる。例えば、自転車の系譜を巡る研究においては、自転車の使用の形態が自転車の改良をめぐる技術的問題を定義する上で重要な役割を果たしたとされている。今の我々から見れば、より安全で楽にこげる自転車の方がよいというのは当然の様に思われるが、少なくともある時期においては、自転車はむしろ危険を楽しむスポーツとして考えられていたようである。そのため安全性を重視するモデルは当初あまり普及しなかったという。(注11)

現実の技術と社会の関係は、おそらく、技術決定論的な側面と社会構成主義的な側面が複雑に絡みあって構成されているであろうと思われ、それを解きほぐすには高度の社会学的分析が必要であろう。こうした認識から、工学倫理教育のあり方についてどういうことが言えるだろうか?一つには、現在の工学倫理のカリキュラムは、技術者だけでは判断のつかない性質の問題まで技術者が立ち入ることを求めているということが言えるだろう。場合によって社会秩序そのものの変更につながる製品の導入に関して技術者だけで影響の範囲を見極めるのはきわめて困難であろうし、その影響の評価についても非工学的な判断が要求されるだろう。また、「このくらいのリスクなら受容可能」というような判断を技術者が個人的に行うということは、結局その技術者自身の社会的な背景だけを反映することになるので、社会の他の成員にとっては受け入れがたいものであることも十分ありうる。

このような、技術と社会の深く入り組んだ関係を念頭に置くなら、むしろ、工学倫理は非技術者の広範囲な層を積極的に巻き込む形で展開していくべきだといえないだろうか。たとえばリスクの判断については、コンセンサス会議のようなものを持つことができればそれに越したことはない。ただし、私企業の製品についてはおそらくそうした公共の場を設けることは非常に困難であり、より非公式なレベルでのネットワーキングが求められよう。そうすると、工学教育において技術者にまず≠゜られるものは、ひとりで何でも判断し英雄的に行動するスーパーマンになることではなく、積極的に非技術者と交流し必要な情報を交換する能力なのではないか。そして、非技術者に対しても工学倫理教育(技術者がどういう問題に直面し、どこで非技術者の助けを必要とするか、という教育)が行われることが望ましいのではないか。このような観点は、国際的な技術者養成のスタンダードを満たそうという動機からはなかなか出てこないであろうが、技術をめぐる倫理問題の考察として欠かせないものであるように思われる。

(注1)以上の事情については、ABETのホームページ(http:// www.abet.org/)およびJABEEのホームページ(http://www.jabee.org/)などを参照のこと。

(注2)参考としたのはFleddermann, C. B. Engineering Ethics . (Upper Saddle River, NJ: Prentice Hall, 1999) 、 および日本技術士会編訳『科学技術者の倫理 その考え方と事例』、丸善、1998年(Harris, C.E., Prichard M.S., and Rabins M. J. Engineering Ethics: Concepts and Cases . (Wadsworth Publishing Company, 1995)の邦訳)。

(注3)この事例については前掲『科学技術者の倫理』1-2ページおよび322- 326ページなどを参照。

(注4)これについては同書208-209ページ、319-322ページなどを参照。

(注5)水質汚染の分野においては、リスクと便益の比較考量で水質基準を考えようというリスク=ベネフィット分析という考えかたも提唱されている。中西準子『環境リスク論』(岩波書店、1995年)参照。

(注6)いずれの例もTenner, E. Why Things Bite Back: Technology and the Revenge of Unintended (Consequences . New York: Vintage Books, 1996) pp. 333-342より。

(注7)斉藤了文『<ものづくり>と複雑系』(講談社選書メチエ、1998)、第6章参照。

(注8)Unger, S. H. Controlling Technology 2nd edition (New York: Wiley and Sons, 1994)が特にこの問題に詳しい。

(注9)ただしこの立場にもさまざまなバリエーションがある。Smith, M.R. and Marx, M. eds. Does Technology Drive History? (Cambridge, Mass. : The MIT Press, 1994)など参照。

(注10)Winner, L. Autonomous technology : technics-out-of-control as a theme in political thought . (Cambridge, Mass. : The MIT Press, 1977), pp. 86-88.を参照。

(注11)Bijker, W.E., Hughes, T.P. and Pinch, T.J. eds. The Social Construction of Technological Systems: New Directions in the Sociology and History of Technology . (Cambridge, Mass.: The MIT Press, 1987)、pp. 17-50を参照。

参考となる邦語文献

ウィナー,ラングドン (2000)『鯨と原子炉』(吉岡斉、若松征男訳)紀伊國屋書店

斉藤了文(1998)『<ものづくり>と複雑系』講談社選書メチエ

中西準子(1995)『環境リスク論』岩波書店

日本技術士会編訳(1998)『科学技術者の倫理 その考え方と事例』丸善

日本技術士会編訳(2000)『環境と科学技術者の倫理』丸善

テナー、エドワード(1999)『逆襲するテクノロジー なぜ科学技術は人を裏切るのか』(山口剛、粥川準二訳)早川書房