スティーヴン・アンガー「倫理的な専門家を保護することは、専門家団体をトラブルに巻き込むだろうか」
Stephen H.Unger,“Would Helping Ethical Professionals Get Professional Societies Into Trouble?”,in IEEETechnology and Society Magazine,Vol.6,No.3,pp.17-21,1987   
キーワード@技術者団体(engineering societies)
     A倫理的技術者(ethical engineers)
     B訴訟(lawsuits)
     C公共の福利(public welfare)
 
T.はじめに
 アンガーはこの論文で、倫理的技術者を保護および支援するという技術者団体(engineering societies)の試みについて論じている。その際主要な論点となるのは、そのような技術者団体の試みにとって降りかかりうる様々なトラブルを回避することである。そして、そうしたトラブルの主なものとしてアンガーが挙げているのは、雇用者による報復的訴訟と、雇用者による技術者団体への支援の停止である。ところでアンガーによれば、これらのトラブルは十分に回避されうるものである。ではいったいどのようにして、これらのトラブルは回避されうるのであろうか。この問いに答えることが、アンガーの論文の骨子である。では、以下においてアンガーの主張を要約して提示することにするが、その中で、この問いに対する答えを確認することにしよう。
 
U.要約
イントロダクション
 近年、使われ方の悪い技術のせいで、個人や社会全体に対して非常に多くの弊害が引き起こされている。このことに関してまず思い浮かぶのが、チェルノブイリやチャレンジャーやボパールの惨事である。しかしこれら以外にも、多くのより小さな事例がある。例えば、有害な化学物質の環境への放出や、自動車の設計上の欠陥等がそうである。
 そうした事例に共通する要因の一つは、問題があらかじめ何人かの人には、つまり、たいていの場合は関係する組織の技術者には、知られていたということである。またしばしばこういう場合もあるだろう。それはつまり、これらの人々が、当の問題およびそれの引き起こしうる結果について注意を促したにもかかわらず、こうした警告が無視された、というものである。経営者側の否定的な反応にもかかわらず、そうした問題に対処しようと執拗に努力する技術者たちは、しばしば経営者によって罰せられたりもする。
 いくつかの種類の事例においては、危険な状況を改めようと行動する人々を保護するための法律がある。しかしこうした法律は現在のところ、効力と範囲の点でかなり制限されている。こうした法律を拡充し強化することは非常に有効であろうし、その努力は現在なされているところである。
 ところで現在、倫理的に行動する技術者を保護するために、積極的で有効な役割を果たすべく期待されているのが、技術者団体である。そして、この技術者団体の行うべき活動について検討する上でモデルとなるのが、AAUP(the American Association of University Professors)の例である。この団体は半世紀以上の間、大学の教員のために学問の自由を守るという点で、有効な勢力であり続けてきた。
 現在、技術者団体によって提起されている、遂行されるべき理念の内には、以下のものがある。
1.事例を注意深く調査すること。上で言及されたような事例において、雇用者が技術者に対してどのように不正な行いをしたのか、ということを示すような報告書を公表すること。(これはAAUPの取る方法の中心的なものである。)
2.そうした事例においては雇用者をはっきり非難すること。(これもまたAAUPの取る手続きの一部である。)
3.技術者の倫理的な行いを雇用者がどれだけ奨励しているのか、ということを示すような、雇用者についての評価を公表すること。
4.法廷に訴え出る必要があると思っている倫理的技術者を助けるような、法的保護基金(legal defense funds)を設立すること。
5.自分の職が危険にさらされるような状況において倫理的原理を支持するような技術者に対して、褒賞を与えること。
 IEEE(the Institute of Electrical and Electronics Engineers)はすでに、この内の1と5を遂行するための機関を設立している。しかし1に関わる機構が十分に働いたのは、たった一つの事例においてだけである。IEEEが、そしておそらくは他の技術者団体も、倫理的技術者を支援するということに関して強い立場を取ってこなかった、という事実については、いくつかの説明が成り立つ。
 その事実を説明するものとしてまず第一に考えられるのが、IEEEの構成員の一部が、高い地位の経営者や事業主からなっており、そうした雇用者側を批判しつつ技術者側のみを支持する、という立場を取りづらかったから、というものである。しかし、技術者による倫理的な行いを奨励し、経営者による不正な行いを防ぐための方策は、倫理的技術者および社会全体の利益に適っているのと同様に、善良な経営者の利益にも適っている。なぜなら、そうした方策があることで、あまり良心的でない競争相手と伍して行くために切り詰めてやって行かなければならないという、立派な経営者にのしかかるプレッシャーが、軽減されるからである。したがって、IEEEの構成員に経営者や事業主が含まれていることは、それほど大きな問題にはならないであろう。
 次に考えられるのがコストの問題である。これに関して何よりも大きな問題は、訴訟になった際に莫大な費用がかかる、ということであり、そしてさらには、もし訴訟に負けた際には多額の賠償金を支払うよう請求される可能性がある、ということである。あるいはそれ以外に、現在受けている雇用者からの支援が停止される、という問題も考えられる。これらの問題は、技術者団体の活動にとって大きなトラブルを引き起こしうる。以下において、これらの問題をめぐって様々な考察が展開される。
 
訴訟に負けないための方法
 倫理的技術者を保護するための手続きが実効的なものになりうるのは、その手続きが正確さと公平さ(accuracy and fair play)に配慮して注意深く遂行される場合にのみである。そしてこの手続きの目的はまた、技術業(engineering)の実践の道徳水準を上げることでもあらねばならない。したがって例えば、事実を誤って伝えるような調査に基づいて報告をしてはいけないし、また支援機関が、団体の構成員の利己的な経済的利益を追求するために用いられてもいけない。(もちろん、技術者による収入アップのための組織的な運動は認められてもよいだろうが、経済的利益の増進を目指すいかなる機構も、工学倫理の促進を目指す機構とは区別されるべきである。)
 このように、倫理的技術者を支援する試みを、実効的なものにする主たるものは、真実と公平さ(truth and fairness)であるが、これらは同時に、その支援の試みを相手取った訴訟がうまく行くのを防ぐ働きもする。アメリカの法廷においては、真実は、名誉毀損や損害賠償の訴えに対する絶対的な防御である。(このことは、例えばイギリス等のいくつかの民主主義国家を含む他の多くの国々には当てはまらない。)したがって報告書の中に、事実に関する誤りの余地がなければ、その報告書に対する損害賠償裁判がうまく行く根拠はなくなってしまうことになる。
 しかし、事実に関するいかなる誤りも絶対に生じない、というようなことは本当にありうるだろうか。完全さというのは価値のある目標ではあるが、しかし十全には得がたいものである。つまり間違いというのは生じるものである。したがって、間違いが生じうるということは、アメリカの法体系によって配慮されてもいる。すなわち、もし何らかの誤りが正確さを期して、あるいは良い目的のために、誠実かつ勤勉に努力した結果として生じたものであった、ということが示されうるならば、その誤りに関して非があるとみられる可能性は非常に少ないのである。
 ところでその際必要なのは、誤りを防ぐための、一連の注意深く練り上げられた手続きである。(報告書を完全に正確なものとするために、多大の注意が払われるべきである。しかしその際、確かにいくつかの誤りは致命的なものであるだろうが、明らかにいくつかの誤りは大して重大なものではない。)ここで参考になるのが、正確さと公平さ(accuracy and fairness)の両方を確実なものとするために、AAUPが用いた非常に強力な手段である。これは、次のようにして遂行される。
 まずAAUPの調査員は、報告書の草稿を関係者全員(訴訟になった際の相手方を含む)に提出して、その意見を求める。かくして、もし重大な誤りや手抜かりがあれば、それらは関係者全員によって修正されうるので、正確さを期すことができる。また、意見の対立がある場合には、対立し合う意見をともに報告書の中に取り入れることによって、公平さを期すことができる。こうしておけば、後に(例えば法廷で)、公表された報告書の中に重大な誤謬が含まれていることが示されても、関係者全員が、公表される前に誤りを指摘する機会があった、ということを述べれば、問題は生じない。
 さらにもう一つ参考になるのが、CU(Consumers Union)の例である。CUは約50年間、商品を評価してランク付けする、詳細な報告書を発表してきた。ある商品がその報告書の中で低くランク付けされたり、ましてや「不可(not acceptable)」としてリストに載せられてしまうことは、その商品の販売に重大な影響を及ぼしうるし、したがってもちろん、関係する会社の収益にも大きな影響を及ぼしうる。その際、CUによる商品の評価の基盤となるのは、実験室での検査や、専門家からなる審査員による判断であったりするが、時には一般の消費者が審査員になって判断することもある。
 CUは、正確で公平であるべく努力しているが、あらゆる種類の誤りを避けることは不可能であろう。その誤りには、例えば計器の読み誤りから、報告書の発表に際しての編集上の誤りに至るまで、様々のものがありうる。また、しばしば審査員によって主観的な判断がなされることもある。こういう点は非難されることがあるので注意しなければならない。ところでしかし、CUに対する損害賠償裁判は時々起こされるが、それがCUにとって大きなトラブルになったことはほとんどない。CUが裁判で負けたのは一度だけであるし、その敗訴の判決も、結局控訴審では覆されることになった。
 なぜCUは、このように法的に強い立場にあり続けてこられたのであろうか。ここで我々が見出すのは、アメリカの法体系のある別の面である。これもまた、倫理的技術者の保護という話題にとって大いに関係のあるものである。法廷が認めているように、CUは何らかのグループの利己的な目的を追求するものではなく(我々の誰もがそうであるところの「消費者」を、そのようなグループとして考えない限り)、公共の福利を追求するものである。したがって、誠実に取り組んだ結果何らかの誤りが生じたとしても、そのことで他の種類の組織が罰せられるであろうようには、CUが罰せられるということはない。
 しかし、たとえ法廷での敗北の可能性がほとんどないとしても、やはり訴訟費用はかかる。腹いせや報復のためだけに、個人や法人が訴訟を起こすこともありうるだろう。しかしそうした報復的訴訟は、実際AAUPに対してもCUに対しても起こされたことはない(AAUPに対しては一度だけあるが、不成功に終わった)。報復的訴訟がそのように困難なものであることについて、次の節で、IEEEに生じうる一つの仮定的事例に依拠しながら、論じられることになる。
 
報復は時に苦いものである
 IEEEの委員会が、注意深く公平な仕方で活動しながら、技術者を支持しつつ雇用者を批判するような、報告書を発表した、と仮定してみよう。より具体的に言えば、その報告書の中に、安全性の問題に関わる製品についての不適切な検査に対する、技術者による抗議が含まれていた、と仮定してみよう。するとその際、その報告書によって不正を暴かれた会社の社長は、報復のために、つまりIEEEをコストのかかる訴訟に引きずり込むために、損害賠償裁判を起こすであろう。その際たとえ会社の弁護士が、勝てる見込みが全くないと指摘したとしても。かくして訴訟が起こされることになったとして、その後いったい何が起こるであろうか。
 訴訟が審理される前に、IEEEの弁護士は、情報開示の手続きをとる。IEEEの弁護士は、その会社の所有する関係書類を取り寄せ、そして証人として、技術者や経営者や会社役員らを呼び寄せる。この過程でIEEEの弁護士は、技術者側の元々の主張(安全性の問題に関わる製品が不適切な仕方で検査されているという主張)をさらに強固に確証するような、大量の証拠を発見するだけでなく、他の多くの同じようなずさんな業務の事例の、確固たる証拠を発見することにもなる。
 審理が開始されるまでに、単なる一技術者の運命に最初は無関心だった報道機関が、その会社の製品に関する恐ろしい話が明らかになって行く過程を、しっかりと追うようになる。この時点で、会社の重役会議の議長は、差し迫る災いの前兆を見るようになり、会社の社長は辞表を提出する。新しい社長は、訴訟を取り下げるよう命令するが、しかし今や、事態はそう簡単には終息しない。IEEEの弁護士は、会社相手に動議を提出し、明らかに無意味な訴訟を起こすことで法廷のシステムを乱用した、ということに対する懲罰的賠償を請求する。この訴えはまた、会社の弁護士に対しても起こされる。その企てに荷担したという罪で。
 このようにして、技術者団体による批判的報告の発表の結果として、会社側が被りえた損害は、以前に知られていた不正な事例に関する更なる証拠や、以前には知られていなかった、同様のあるいは全く別の不正な事例の存在が、暴露されることによって、さらに拡大しうるのである。
 以上見てきたことは仮定の事例であるが、AAUPやCUが報復的訴訟によって妨害されてこなかったことの背景には、この仮定的事例と同様のことがあるだろうと考えられる。したがって技術者団体もまた、この仮定的事例に鑑みるに、報復的訴訟を起こされる危険性は相当低いと言えるだろう。
 
雇用者の支援を失うこと
 現在のところ技術者団体は、雇用者から大きな支援を受けている。したがって、もし雇用者が突然、技術者団体に対するあらゆる形の支援を打ち切ろうとするならば、技術者団体は、間違いなく危機を感じるであろう。ところで、そのように技術者団体が雇用者からの支援を打ち切られる可能性は、いったいどれほどあるだろうか。
 この問いに答える前に、ともかくまずは、なぜ事業主のために金儲けをすることが目的である会社組織が、現に今技術者団体を支援しているのか、ということを問わなければならない。この問いに対する簡潔な答えは、そうした会社組織自身が技術者団体から利益を得ているから、というものである。一般的に言って、技術者を雇用している会社は、明らかに技術の進歩から利益を得ている。そして本質的にはこれが理由となって、技術者団体は存在している。つまり、技術者団体は技術の進歩に大きく貢献しているのであり、したがって、技術の使用者たる会社がそのような技術者団体を支援しようとするのは、驚くべきことではない。より具体的なレヴェルで言えば、もし会社が、技術者が最新技術を自社製品に応用することに関心があるならば、技術者団体での技術に関わる活動に励むよう技術者を促すことは、その会社にとって明らかに利益のあることであろう。
 その一方で、もしある会社が、技術者団体の構成員に対する支援を打ち切る決定をしたならば、その会社は、技術者の労働市場において、自らにハンディキャップを課すことになるだろう。つまり、技術者団体に敵対的であるという評判を得てしまった会社は、そのことによって技術者たちから反感を買うことになるだろう。そしてこのことはさらに、その会社の製品の売上減という事態をも引き起こしうるであろう。なぜなら、消費者でもある技術者たちが何らかの製品を購入する際、値段や性能の点で大した違いがなければ、技術者団体に敵対的であるような会社の製品を選ぶとは、到底考えにくいからである。
 このように、雇用者による技術者団体への支援は、雇用者の自己利益から発するものであるが、そうであるがゆえに、それが無くなることはほとんどありえないであろう。
 
結論
 技術者団体による倫理的技術者を支援する試みには、もちろん様々な困難が伴うであろうが、以上見てきたように、そうした諸困難は十分乗り越えられうるものである。したがって、今後その試みを積極的に推し進めて行くべきである。
 
V.コメント
 アンガーのこの論文にしたがえば、技術者団体による倫理的技術者を支援する試みは、前途洋々であるように思われる。しかし、アンガーのこの論文で述べられていることは、やはり一つの理想像であって、この理想像に近付くべく努力して行こうというアジテーションの側面が、この論文には大きいように思われる。しかしそうであるからこそ、つまりこの論文で述べられている内容が理想像であるからこそ、我々がそれから得るべきものも大きいであろう。アンガーがここで述べていることの中で、我々が何よりも参考にすべき点は、正確さと公平さの重視と、公共の福利の尊重であろう。この内、正確さと公平さを重視しなければならないということは、言うまでもないことであり、当然そうして行かなければならない。我々がここで注目したいのは、公共の福利の尊重という点である。公共の福利の尊重ということは、アンガーの論文の中では、CUの事例に即して述べられていたことであって、直接的に技術者団体に関して述べられていたことではないが、しかしアンガーが示唆してもいるように、倫理的技術者を支援するという技術者団体の試みが、常に公共の福利と関わっていることは明らかである。なぜなら、粗悪あるいは危険な製品を世に出すことは、公共の福利を著しく侵害することであり、ある倫理的技術者がそのような製品を世に出すことに反対し、その技術者を技術者団体が支援することは、公共の福利に適うことだからである。したがって、技術者および技術者団体は、常に公共の福利と関わっており、それの尊重という面を前面に打ち出すことで、CUと同様に、法的に非常に強い立場を取ることができるだろう。おそらく、とりわけ安全性という点での公共の福利の尊重は、日本においても近年ますます重視されるようになってきたと言える。例えば医療事故や、何らかの欠陥製品ないしは技術上の過誤によって引き起こされた事故等は、近年ますます激しく非難されるようになってきたと言える。比較的最近の例で言えば、リコール隠しが発覚した自動車メーカーが著しく販売実績を落とし、一方で環境への配慮を看板に掲げた自動車メーカーが大きく販売実績を伸ばしているが、これは一つの象徴的な例であろう。いずれにせよ、安全性に対する消費者および社会全体の関心は、近年ますます高まってきているわけで、したがって安全性という公共の福利の尊重を前面に掲げることによって、倫理的技術者を支援するという技術者団体の試みは、アンガーが描いた理想像に確実に近付くことができるであろう。
                              (三谷竜彦)