理論化学の役目 4

新しい情報処理システム

現代の情報社会と情報処理システムの進歩は、半導体の微細加工技術の進歩に支えられています。加工技術の進歩により、半導体中の基本素子が小さくなり、 素子数も多くなり、 動作が速く、性能も良くなります。例えばスマートフォン用の半導体は、10億分の7mつまり水分子50個分の長さの単位で、ケイ素板が加工されています。しかし加工技術の進歩による高性能化は、二十一世紀中に限界に達すると言われています。素子が小さくなると、量子力学に由来する電子の波動性による雑音で、誤動作するためです。そこでこの量子力学を積極的に使った、新しい原理の情報処理システムを作る必要があります。

新しい動作原理の基本素子として、単電子トランジスタ(図c)が研究されています。今迄の素子は数万個の電子を使って一動作しますが、これは一個の電子でも動作します。配線と点状電極はつながっていないので、電子にとってはこの間に障壁が有り、直観では二つの配線の間に電気は流れないと思われます。しかし配線から電極に飛び移るだけのエネルギーを持たない電子でも、量子力学による波動性の効果で、障壁を時々すり抜ける事が出来ます。これは裏口入学のように珍しい現象ではなく、どの電子もできる普遍的な能力です。電子は負の電気を帯び反発し合うので、電極に負の電気が少ない時だけ移る事ができ、多くなるともう一つの電極へ逃げたがります。そこでゲートにかかる電圧を変えると、それに応じて電極に正や負の電気が生じ、電子を一個ずつ左から右へ移すことができます。これを使い今迄のトランジスタと同じ働きをさせたり、電極中の電子の数を使って、記憶をさせる事もできます。

トンネル接合による単電子移動は、生物が光合成の反応中心等で既に利用しています。そこでは電極は一つの分子でできています。人間の作る情報処理素子も、最終的に個々の分子で作られるかもしれません。例えば図dの分子は入力に電子が入ると、図eの分子は光があたると構造が変わり、配線間に電気が流れなくなると言われています。分子素子と呼ばれるこれら基本素子は、現在の半導体素子の百分の一の大きさで、同じ体積に百万倍も多く入ります。難しい点は色々ありますが、我々の操作できる最小単位は原子なので、これらがもし実現できれば、究極の集積技術と呼べるでしょう。

図c: 単電子トランジスタの構造。電子は配線-点状電極-配線間で流れるが、これはゲートの電圧で制御できる。電子は量子力学効果により、本当なら通れないトンネル接合をすり抜ける。 図d: 提案された分子素子の 構造。電子は=-=-の結合に沿って配線間を流れるが、これは入力に注入した電子で制御できる。素子は現在の百分の一程度の大きさになる。 図e: 分子素子(光スイッチ)の 構造。電子は=-=-の結合に沿って配線間を流れるが、光があたると中央部の構造が変わり、電子は流れなくなる。

理論化学、物性物理学は、全ての物を支配する根本的な法則(量子力学)に基づいて、物の性質を理解しようという基礎学問として始まりましたが、現在では多方面へ応用されつつあります。科学者の仕事は第一に真理の追究であり、その結果は学問だけでなく応用も進展させる、という科学者の信念が実証されるのを見るのは嬉しい事です。1998年と2013年のノーベル化学賞は著名な理論化学者に与えられましたが、この分野の重要性が増しつつある証でしょう。理論化学は多くの可能性を秘めています。